『国連の平和外交』(東信堂)285 ページ

「(1990年夏)、私は、エルサルバドル軍最高司令部との引き合わせ会談に出かけた。国防相エミリオ・ポンチェ大将が統帥し、大将は強硬派と

して名が通っていたが、この時は物腰も柔らかく、柔軟姿勢を見せていた。彼らは国連監視下に置かれることが明らかに気に入らない様子で、

コンスティテューショナリダード』と『インスティテューショナリダード』という二つのスペイン語の概念を尊重する必要があるとべらべらまくしたてた。この

二つのスペイン語は、こうして始まった長い長い交渉の過程で幾度となく登場することとなった。『コンスティテューショナリダード』なるスペイン語は

憲法』が軍部に付与した神聖なる義務と、軍部がいつでもそういう義務を果たすことができる立場にある必要性に関することであった。・・・
『イン

スティテューショナリダード』なるスペイン語は、軍部の名誉と国家の『制度』の中での軍部の位置付けに関することで、もし、少しでも信頼性が低

下したら、軍部の士気と共和国を防衛する能力に支障が出るという話であった。・・・(中略)・・・

国連の我々担当者全員は、とっくの昔に(反政府ゲリラ)『国民解放のためのファラムンド・マルティ戦線』(FMLN)が主要な政治的案件につい

てその目的を達成してしまうまで停戦はあり得ないことが分かっていた。私の仕事は、(国連事務総長の中米担当個人代表)デ=ソトが紛争の

原因になった案件、つまり軍の役割と規模、警察と司法の質、選挙制度、土地問題について両当事者の合意をとりつけるべく奮闘している間

、本当に停戦について交渉しているようなふりをすることであった。

『戦線』が以上の分野で追及していた改革は憲法の改正を必要とするものであった。実は事態は切迫しており、このことをデ=ソトは上手く利

用した。どういうことかと云うと、エルサルバドル憲法の改正のためには立法議会が二期連続で改正案を批准する必要があった。当時成立して

いた立法議会の任期は1991年4月30日いっぱいをもって満了することになっていた。もし、この時の立法議会が 憲法改正手続きを改正 し、ある

いは、要求されるような実質的な憲法改正を批准しなければ、改憲案が批准されて法律になるのは次期立法議会、それも1994年5月まで成

立することのない立法議会でのこととなる。これは明らかに容認できなかった。『ファラブンド・マルティ戦線』はそれまで生命を賭けて闘ってきた改

革に勝利したという確証を得るのに、三年以上も待てる筈がなかった。戦争が続くことになる。

このような遅延を避けるため、デ=ソトは両者を説得してメキシコ市で1991年4月1日から 3週間 交渉させることにした。この交渉で結果が出れ

ば、立法議会は4月30日いっぱいで任期が切れるまでにそれを批准することができる。そして、任期満了に伴う総選挙で選出された新立法議

会が再びそれを批准すれば、憲法改正ができる。

デ=ソトは紛争当事者双方が 憲法改正手続きを改正する という選択肢に合意することを期待していた。3週間では実質的な憲法改正につ

いて合意に至ることは至難と思われた。・・・(中略)・・・

サンサルバドル市では 憲法改正手続きの改正 には大変根強い反対論があった。デ=ソトは私と一緒にサンサルバドル市に飛び、クリスチャニ

大統領を説得して改正手続きの改正の方を受け容れさせるべく、最後の努力を試みることにした。これは成功しなかった。大統領は停戦問題

についてはある程度柔軟性を見せたが、改憲問題については右派の閣僚を無視することはできず、そのために会談が決裂してもやむを得ないと

いう態度であった。・・・(中略)・・・

5日後、デ=ソトが電話してきて私は驚いた。何と、最後の最後になって、 実質的改憲案を一包みにまとめて両者に承諾させることに成功した

というのである。改憲案には軍の役割の再定義、軍から独立した文民警察の新設、人権監査員制度を含めた広範な司法制度改革、選挙

制度改革などが他の改革とともに示されていた。改憲案にはまた国連事務総長が任命する「真相究明委員会」を設置し、「1980年以降に発

生した重大な暴力事件で社会に対する影響のため公民が緊急に真相を知る必要のあるものを調査する」ことも盛り込まれていた。・・・(中略)

・・・

改憲案は立法議会にかけられ、4月30日の任期満了の2、3週間前に若干の修正を加えた後、可決され、総選挙後の新立法議会も即刻そ

のほとんどを批准した。例外の主要なものは、軍に関する規定であった。」