法の支配The Rule of Law

 

はじめに

プラトンの『法律』(The Laws)4巻6章では、神代(かみよ)には人間を超えた霊的存在が人間を支配していたのでよく統治されたが、人間が人間を支配するようになると世が乱れたとされている。アテナイ人(プラトン自身と思われる作中登場人物)は、理性こそ人間の中でもっとも神的(不死的)な要素だと考えて、その理性が人間を支配すれば理想的な統治ができると考えられることから、「理性法の支配」を統治のイデア(理想的な形)とした(713a-714b)。
これに対してアリストテレスの『政治学=国制学』(Politics)では、法律を感情に支配されない理性の規範と見る点ではプラトンと共通している。「法の支配」を「人の支配」と対置しているところや、「法とは感情に左右されない理性である」と述べているところなどが、その証拠である。しかし、アリストテレスは、プラトンのように理性を演繹的に神から導き出す、あるいはソクラテスやプラトンなどの哲人から導き出すのではなく、むしろ現実の世の実際の法から導き出す帰納的な方法論を採用している。その中でも「成文法よりも慣習法の方がより重要な事項を扱ってより重視されている」という興味深い指摘をしている。
実は、「法の支配」についてアリストテレスの論考が集中している『国制学』3巻16章(テキスト126-129頁)は、実は絶対王制批判の部分であり、名誉革命後のイングランド人の法や政治の考え方に極めて似た要素を持つ部分なので精読を奨める。しかし、なんといっても、プラトンやアリストテレスの古代ギリシャ哲学から、直接的に現代の法律学が生まれてきたわけでは決してない。現代の法律学にとっては、何よりもローマ法が最初の祖先である。ただ、プラトンやアリストテレスの哲学的な考え方が、陰に陽に、中世および近代の大陸法そして英米法の発展に無視のできない影響を与えてきたことは否定できない。本稿は、そういう趣旨であることを前提として読んで頂きたい。


大陸法(Civil Law; Continental Law)

中世西ヨーロッパ(=ラテン語聖書を用いたローマ教皇の霊的支配圏、Latin Christendom)の大陸部においては、1100年頃にイタリアのボローニャ大学法学部でユスティニアヌス帝の『ローマ法大全』(Digesta)などの古代ローマ法文献が再び法学教育に用いられるようになり、古代ローマ社会で行われていた法を全く異質な中世西ヨーロッパの様々なゲルマン人社会に適用するために、まず法学者がローマ法のエッセンスや原則というべきものを注釈(gloss and commentaries)の形で抽出して、ゲルマン系支配者たちが勝手に作った法令を改善し、またその欠陥を埋めるための「イデア」的な法律として洗練する傾向が見られた。この「イデア」的で、現実の支配者の法律から離れた学説法をユス・コムーネ(ius commune, 普通法)と呼び、これに対して各地の世俗支配者が勝手に作って適用した法をユラ・プロプリア(iura propria, 固有法)と呼ぶ。現実の堕落した人間界は「夜」に例えられ、現実の堕落した支配者の固有法は夜を照らす「月」に例えられ、堕落の程度の小さい普通法(ユス・コムーネ)はその月を照らす「太陽」に例えられた。ただし神聖ローマ帝国においては、神聖「ローマ」帝国としてのアイデンティティが手伝って、大学法学部のローマ法学者が、実際の裁判において争われるローマ法上の争点について上訴を受け付けるという形で、直接的に現実の裁判に係ることも稀ではなかった。
近代に入ると、ユス・コムーネを生んだ中世ローマ法学の蓄積を活かして、より純粋な「イデア」的理性法として「自然法」を打ち立てようとする自然法思想も生まれた。
フランス革命の中で、1804年に「フランス人の民法典code civil des francais」が制定されたが、これはドマなどの自然法学者を含む広い意味での中近世ローマ法学の学説法の伝統的知識を、革命後の古代ローマ共和制を理想とする近代民主主義の世の中で、それまで絶対王政を支えてきた世襲貴族裁判官の独占から解放して、誰にでも分かるように人民の手に渡すという趣旨で平易なフランス語で成文化、法典化したものである。「フランス人民法典」は、ベルギー、オランダをはじめとするナポレオンの武力制圧地域に移植されて「ナポレオン法典」の名で知られるようになったが、1896年制定、1900年施行のドイツ民法典、1896年制定、1898年施行の日本民法典など、各国の民法典編纂作業を大いに刺激した。この近代の法典編纂は、負の側面を見ると、かつてラテン語という共通語のあったローマ法学の共通の根から、各国民国家の法律学の枝葉が相互に切り離されてバラバラになったことを意味する。


英米法Common Law; Anglo-American Law

一方、イングランドでは、1066年のノルマン人の征服後、征服王ノルマンディー公ウィリアムが、先のイングランド王エドワード懺悔王(Edward the Confessor)の時代に行われていた慣習法がそのまま有効であるという立場をとったために、これが王国古来の慣習法という意味でのコモンロー(Common Law)の基礎となった。コモンローは元来は各地の荘園法や市場法とは異なり、国王裁判所が王国全土共通に適用する法を指した。この点では、神聖ローマ帝国の普通法と、イングランド王国の共通法(コモンロー)は意味的に似ているとはいえるが、基本的に別物で、コモンローへの古代ローマ法の影響力はあくまで限定的、間接的である。コモンローは、現代の実定法主義(legal positivism)においては、判決の中で先例拘束性を有する決定的理由とされるものの集合体である判例法そのものと捉えられているが、より伝統的には、判例というのは、不文の慣習法であるコモンローの「証拠」に過ぎないと考えられてきた。
伝統的なコモンローの考え方(判例は不文のコモンローの証拠に過ぎず、コモンローそのものではないという考え方)からすれば、イングランドの裁判官は、その気になれば、個別具体的な事件の判決を通してヨーロッパ大陸の普通法(ユス・コムーネ)や自然法を、イングランドのコモンローの中に取り込むこともできたし、実際にそうしたと思われる事例もいくつか散見されるが、限定的である。

コモンローの四つの意味

  • ①、比較法的に、英米法(⇔大陸法civil law)

 

  • ②、法制史的に、イングランド王国の共通法(⇔荘園法、市場法など)

 

  • ③、現代法源の一つとして、判例法(⇔制定法statutes)

 

  • ④、現代法源の一つとして、国王裁判所の管轄した共通法(⇔大法官裁判所が管轄したエクィティequity、衡平法)

 

1804年のナポレオン法典の出現は、イングランドにも大きな衝撃を与え、イングランドでも暴力革命を避け、法律を人民の視点でもできるだけ分かり易くするように、司法制度改革および大学における法律学教育が本格化し、現在に通じる講学上の法律科目が成立するようになった。この近代化の過程で実定法主義(legal positivism)によりコモンローがもはや不文法ではなく判例法という形の成文法であると理解されるようになったが、この負の側面として、やはりイングランド法が、ヨーロッパ共通のローマ法の根からさらに疎外されていく傾向性を強めたともいえる。
その文脈で再び中近世ローマ法学の共通の根の見直しも行われつつあるヨーロッパ統合の政治的な流れの中で、ヨーロッパ私法、とくにヨーロッパ契約法の統一へ向けた動きもあり、その文脈で再び中近世ローマ法学の共通の根の見直しも行われつつある。ただし、イングランド(およびウェールズ)法が完全に大陸法に併合されることはないと思われる。


法の支配The Rule of Law

(英米法)
法の支配とは、イングランドでは1607年の王の禁令事件Case of Prohibitions del Roy (1607) 12 Co. Rep. 63, 65で、「王は何人の下にあってもならないが、神と法の下になければならない。なぜなら法が王を作るからである」ipse rex non debet esse sub homine, sed sub Deo et lege, quia lex facit regemという13世紀のブラクトン(Henry de Bracton)という裁判官の名前で知られる書物にある格言を、17世紀の絶対王政期の衆座首席判事クック(Sir Edward Coke)が引用して、スコットランド王でありながらイングランド王位をも継承したジェイムズ一世(スコットランドでは六世)に対して、イングランドではコモンローに服従することがイングランド王たりうる要件であることを説き、王もこれに従った故事から有名である。
クックは、さらに1610年のボウナム対医師会事件Bonham v College of Physicians (1610) 8 Co Rep 107で、コモンローが理性に照らして議会立法を点検、支配する見解も披露した。歴史的に見れば、例えば1215年のマグナ・カルタはエドワード懺悔王の時代から伝わるイングランド古法を再確認する体裁をとっているので、マグナ・カルタの時代には現在の議会の貴族院はあっても、衆議院(庶民院)はまだなかった(のちのシモン・ド・モンフォールの議会がその萌芽となる)ので、クックのコモンローが王だけでなく議会にも優先するという主張には歴史的な説得力もある。問題は、コモンローを司る裁判官が、議会以上の権威を持っているかどうかであった。大陸法におけるユス・コムーネ(普通法)が現世の個別権力者の法令よりも「法のイデア」=理性法に近い学説法として一線から退いた地位にあったのと対照的に、コモンロー(イングランド王国の共通法)は、クックが述べたように理性法としての性格を持ちながら、あくまでも裁判の最前線に立ち、現世の権力者、王や議会と直接対峙していたのである。クックをはじめとするコモンロー裁判官の現世の権力闘争における勝負魂こそ、研究室にこもりがちの大陸法と違った、英米法における法の支配の確立の大きな要因であったといえるかもしれない。
コモンローの王に対する優位は、最終的に名誉革命と権利章典で確認された。ただし結果的に王の首を実力で挿げ替えた名誉革命は、議会(内王冠)主権を確立し、革命の主体となった議会の優位を鮮明にし、コモンローに照らして裁判官が議会立法を審査するという立法審査権は、イングランドでは生成も発展もしなかった。
違憲立法審査権(judicial review)は、イギリスの議会立法1765年印税法(Stamp Act 1765)に対してマサチューセッツ植民地議会が「代表なくして課税なし」(no taxation without representation)をうたい文句に、クックのボウナム事件判決を黙示的に引用しながら、これを無効と宣言した事例を経て、反乱の末独立を勝ち取ったアメリカ合州国において成文憲法のもとで連邦最高裁が発展させた判例法理である。すなわち、1803年のマーベリー対マディソン事件Marbury v Madison 5 US 137 (1803) で、連邦最高裁首席判事ジョン・マーシャルは、クックのボウナム事件判決の原則を憲法が補強するという立場から、合州国憲法第三編のもとで、連邦裁判所には憲法に照らして議会立法の合憲性を審査する権限があることを宣言した。クックがボウナム事件判決で示唆した理性法の優位は、憲法という具体的な形、とくに合州国憲法の最初の十修正(Ten Amendmentsはモーゼの十戒Ten Commandmentsとの英語の語呂合わせで記憶される)や南北戦争後の三修正に成文化された市民的自由や人権という実定法的な形を与えられた。ここで重要なことは、憲法が、通常の議会立法に改正手続きの点でも優位するからこそ、議会立法に対する上位規範が存在しうる、ということである。日本では昨今、日本国憲法96条の改正手続の簡易化が叫ばれているが、これは、いわば憲法という上位規範の支配という意味での法の支配を手続的に崩す方向性の改革であり、憲法典を持つ意味をなくす反憲法的な改革といえる。
なお、厳密に言えば、アメリカでも、クックのボウナム判決が果たして議会立法のコモンロー合法性審査を示唆するものなのか、それとも決してそうではなく、単なる議会立法解釈ルールの表明なのかをめぐって争いがある。
イギリス本国に反乱植民地における過激な判例解釈が輸入される可能性は、19世紀から20世紀にかけてのイギリス議会の選挙法改正(Reform Acts)等による漸進的ながら着実な民主化を経てさらに小さくなる傾向にあったといえよう。しかし、1960年代のアメリカにおける公民権運動(civil rights movements)の影響を受けたイギリス弁護士の活躍などから、次第にイギリスにも議会立法に優位する人権があるとする考え方が影響力を持つようになった。1998年の人権法(Human Rights Act 1998)は、ヨーロッパ人権条約をイギリス国内の裁判所で直接に適用し、その中で、議会立法を可能な限り条約上の人権に適合するように解釈する義務を裁判所に課すとともに、そういう解釈が無理な場合は、その議会立法が条約上の人権と適合しない(incompatible)と宣言する権限を裁判所に付与した。ただし、裁判所に人権不適合と宣言されてもその議会立法が効力を失うわけではないが、実際上は、イギリス議会は裁判所から人権不適合宣言を受けた議会立法の該当条文を今のところ迅速に改正している。これは、人権という上位法が立法機関を含めた権力機関に優位することを示しており、裁判所と議会の協働による法の支配の実現と捉えることができるだろう。
実は、アメリカのマーベリー対マディソン事件連邦最高裁判決が確立した違憲立法審査権は日本国憲法第81条に成文化され、少なくとも日本最高裁判所は憲法81条をそのように解釈している(最大判昭和23年7月8日刑集2巻8号801頁)。そして日本刑法200条の尊属殺人罪の量刑規定が1973年4月4日の最高裁判決で憲法14条の平等原則に反するとされたあと(最大判昭和48年4月4日刑集27巻3号265頁)、まず検察がその罪による刑事訴追をしないことで遵守し、国会は20年余を経て2005年の刑法典改正ではじめて尊属殺人罪の規定を削除した。この日本の動きは、アメリカ型の成文憲法下における違憲立法審査権の実効性も、実際のところは、憲法の明文規定にかかわらず、行政機関(尊属殺人罪事件では検察)だけでなく、立法機関の積極的な協力を要すること示唆している。


(大陸法)

一方、大陸法には、法治国家(Rechtsstaat)というドイツ語概念(ドイツ語としては正しい国・法の国という単純なニュアンス)がある。起源はアリストテレスの「法の支配」論にあるが、ドイツでは、これは「法律に基づく行政」という意味に狭く解釈される傾向があった。
1933年2月27日の議事堂火災翌日に出された「民族と国家を守る緊急大統領令」がワイマール憲法の市民的自由権の保障を停止、同年3月23日の「民族と国の艱難辛苦を取り除く法律」通称「全権委任法」がワイマール憲法の規定にかかわらず内閣に議会承認なく立法を行う権限を委任し、その相乗効果として共和国首相ヒトラーに独裁権力を与えた。ナチスの連続テロの嵐の中で、形式的に法令さえできていれば、その中身がどのようなものであっても法令として施行されるというのは、おそらく当時のドイツ法の一般的理解としても曲解であったと思われるが、法律に基づく行政の理論では、ナチスの命令にもとづきナチスの犯罪が法律に基づく行政として粛々と実施されていくことを止めることはできなかった。
ナチス・ドイツでは、卓越した識見と指導力で国を率いる一種のプラトン・ソクラテス的な理想『国家』(The Republic)のある種の哲人指導者(ヒトラー総統)のもと、世界を指導すべき優等市民団(ドイツ民族)の優生学的な繁殖目的を科学的に効率的に実現することが企画され、アーリア人という優等人種の人種的優等性の向上を図り、これを維持するために優等人種の非アーリア人種との結婚を禁じ、非アーリア人種を公職から追放するニュールンベルク法(ドイツ人の血の純潔と名誉を守る法律と帝国市民法)が制定され、その差別的迫害的内容は法律の文言をはるかに超えて行政だけでなく私人間関係を含めて広く恣意的に拡大適用され、ついには優等人種の劣等有害人種との運命の決戦=独ソ戦(ナチスは国際共産主義をユダヤ人の世界制覇の一環と捉えていた)における作戦行動・戦闘行為として、劣等有害人種とされたユダヤ人等を効率的に根絶やしにするために科学技術を駆使した殺人工場が設計、建設され、機械的に稼働し、大量殺人という事務が粛々と処理されたのであった。そこでは法律に基づく行政の理念が、いつの間にか独裁者の命令に奴隷的に服従した事務処理としての殺人工場の作業工程の効率的な処理に変わっていた。
いつの間にか独裁者の命令に奴隷的に服従した事務処理としての殺人工場の作業工程の効率的な処理に変わっていた、時のイギリス王ジョージ六世が演説で述べたように「力は正義なり」という原始未開の野蛮な欲望の正当化に、宗教的、哲学的、法学的な香をそえただけのニセモノであった。
その経験を踏まえて、第二次世界大戦後のドイツでは、法の国、正しい国といっても、悪法と正しい法の区別がつくように、法の具体的な中身が問われ、民主主義社会における市民的自由と人権の保障こそが理性法の支配の要請の具体的な形と捉えられるようになった。


日本

日本においては、第二次世界大戦後、「憲法死せども行政法は死せず」(東京大学法学部行政法教授田中二郎)の言葉が象徴するように、アメリカ軍政が導入した民主主義と人権教育の洗脳に惑わされず、帝国陸海軍解体後に残った日本の優等市民の支配、即ち、東京大学法学部と国家公務員Ⅰ種試験に合格した優等市民の支配を、その知恵と権力を結集して持続させる国制として、日本国憲法の建前とは別の、従来通りの行政国家という本音が生き残った。すなわち自らが卓越した識見と指導力をもつ優等市民であることを競争試験の成績で証明したと自ら信じこんでいる官僚が、マスコミや国会議員を操って、自ら良いことにした法律を作ってその法律に従って官僚が自ら支配し、官僚自らにのみ説明責任(accountability)を負うのである。言い換えれば、「法の支配」という憲法的な建前の裏で「力の支配」という霞ヶ関的なナマの本音が国を動かしている。その結果、霞ヶ関において無限大に思い上がった視点から見て、人類文明の窮極の力に見えてしまうところの原子力を手に入れる欲望にとり憑かれ、これの虜となって「力の国」アメリカの覇権の後追いをする行政が進められている。具体的には原子力発電所の稼働、高速増殖炉の稼働という事務が、万難を排して、ナチス的ではないかもしれないが、よりアジア的、すなわち陰湿なやり方で、粛々と進められて、本来の日本の良さを破壊するだけでなく、将来の日本の居住可能性をも破壊しているのである。
これからは、その反省から、権力の奴隷になるのではなく、たとえ法律を勉強しても、競争社会に放り込まれても、アメリカの力に幻惑されても、日本の組織社会の型にはまる部品になることを強要されても、最低限、人間の心を失わないことを至上命題とし、とくに人間の力の到底及ばない自然の力があることをまず謙虚に認識し、法の支配は、無感情で機械的な事務処理ではなく、血の通った正義の支配であることを忘れないで欲しい。


早稲田大学国際教養学部First Year Seminar IB11
Philosophy, Politics and International Relations

プラトン、アリストテレスから現代政治、現代国際関係を見る(英語)

講師 幡新大実



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法の支配