横井さんの茶器、南方庵で

これまで茶器についてあまり深く考えたことはありませんでしたが、横井庄一記念館へ行って、横井さん手製の茶器で抹茶をご馳走になり、家に帰って市販の茶器でお茶を飲んでみてふと思いました。「同じ茶器でも、これはなんと味気ないものか」と。横井さんの茶器、南方庵床の間

すると、家内曰く「お茶というとこれまでお菓子を食べてお抹茶を飲むだけと思っていたけれど、茶器を手にもって、その手触り、持った感触、重み、色合いを味わい、楽しみ、これほど豊な気持ちになるものだと思わなかったね」と。本当にその通りだと思いました。横井さんの茶器でお茶を飲むライオン

写真の撮影場所は、京都、下鴨の南方庵というお茶室です。南方庵は、その昔、京都の谷川茂平という人が、貧しく、夫婦で東尋坊から身を投げて死のうとしたときに、死ぬ勇気を持てば何か他にできることがあるんじゃないかと思い直して家に帰り、その後、懸命の努力の詮あって事業に成功して富豪になり、生んでくれたお母さんに感謝して、大原に住むお母さんのために建てた数寄屋建築だったそうです。京都伝統建築技術協会 中村昌生先生によると、 大徳寺龍光庵の国宝、書院にある密庵(みったん)席という茶席によく意匠が似ているそうです。戦後になって学徒動員から奇跡的に生きて帰った父、幡新守也が祖母のために下鴨に移築しました。「死んで花実が咲くならば、寺や墓所は花盛り」とは祖母の言葉ですが、その言葉の裏側には、そういう父の前半生がありました。そして、特攻隊で「九段の靖国神社の桜の花のように華々しく散って」死んでいった学友たちの手前、国が破れても守るべき日本の価値を数寄屋建築に見出した、そのきっかけの一つとなった茶室です。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を守り、かといって自爆するのではなく、生んで育ててくれた母の苦労をしのび、生きて帰って親孝行するために自らの命を粗末にせずに足かけ28年、絶海の孤島、グァム島の地中に穴を掘って友軍の帰りを10年、20年と月の満ち欠けを見ながら指折り数えて待っていた横井さんの手製の茶碗が、このお茶室には不思議とよく調和します。写真二枚目お茶碗の向こうにみえる葉蘭を生けたのは私の母です。横井さんの霊をライオンに見立てて、お茶をそなえました。