総理の靖国神社参拝をアリストテレスとイギリス「憲政」から論じると・・・

アリストテレス『政治学』(国制学・憲政学)第五巻1314b37-1315a3

(専制支配者も成功を望むなら)ほぼ全てのことについて前述と逆のことをしなければならない。都市国家を建設し秩序立てるのは、あくまでもそう委任(信託)されたものとして行うのであり、専制支配者として行ってはならない。とくに神々を熱意を込めて祭っているように見えなければならない。(というのは、人民は、そのように見える人物のもとで何等かの不正を被る可能性は低いと思うものだからであり、人民は、支配者が神々を畏れ敬い神々をも味方につけていると思えば、謀反を企てる可能性も小さくなるからである。)もっとも、熱意をもって神々を祭るといっても、それが愚かに見えることがあってはならないが。(幡新大実訳)

アリストテレスの政治学(憲政学)第五巻は、ソクラテス~プラトン流の哲人政治を描く手法とは逆に、現実の統治者の中に多いタイプ、すなわち専制支配者に対して、もし成功を望むのなら、このようにするがよいという実践的助言を綴った巻として名高く、マキャベリの『君主論』やプロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ二世にも大きな影響を与えた。上記は、その助言部分の冒頭部分である。

アリストテレスの助言は、支配権は神々から委任(信託)されたものであるという古典的な考え方を前提にしている(幡新大実『イギリス憲法Ⅰ憲政』東信堂所収のエリザベス一世の王位継承演説も参照)地上支配の委任者が神々であるならば、支配者は、当然、神々を篤く敬わなければならないだろう。被支配者たちにそういう姿を見せることの重要性はあえて論じるまでもないだろう。興味深いのは、「熱意をもって神々を祭るといっても、それが愚かに見えることがあってはならない」という一言である。このさりげない一言があるところが、さすがアリストテレスと言いたくなるところである。アリストテレスの言っていることは、もちろん「なんでもほどほどに」という中庸の徳である。

総理大臣が国に殉じた英霊に政務報告をするというのは、政務が委任ないし信託事務であることを前提にした行動で、「アカウンタビリティー」(日本語でよく「説明責任」と訳されている)の本来の意味に即した行動であるともいえる。日本語本来の「まつりごと」の意味にも通じるかもしれない。問題は、それが、アリストテレスの注意書にいうように「愚かに見える」かどうかである。それは、日本人が日本の総理大臣に、単に国会の多数派の指導者であって欲しいのか、それとも東アジア大の指導者になって欲しいのか、あるいは世界大の指導者になって欲しいのかによっても変わってくるだろう。

私は、やはり世界大の指導者になって欲しいので、現代国際社会においては、日本の総理も自由民主主義と人権の促進に熱意を示すことこそ、古代ギリシャ社会において神々を畏れ敬うのに熱意を示すことに比すべき、指導者のあるべき姿なのだと考える。すなわち政務報告をすべき場所は国会であり、熱意を示すべき対象は自由と人権の水準の向上である。

これとは別に、イギリスの専制君主の宗教に即してアリストテレスの注意書を考えてみると、1649年に「ピューリタン革命」で「処刑」されたチャールズ一世と、1688年に名誉革命でフランスに亡命したジェイムズ二世が思い浮かぶ。私は、安倍総理の靖国参拝には、どことなくジェイムズ二世にとって母の宗教であったカトリックへのこだわりに近いものを感じる。

宗教には理性を超えた力がある。一つ間違えば人の生死にかかわる。イングランドでは、エリザベス一世が父王ヘンリー八世のプロテスタントの国教を回復し、先代の姉メアリー一世の夫としてイングランドを共同統治してきたカトリックのスペイン王フェリペ二世の野望をその無敵艦隊とともに破り、かといってプロテスタントの外国君主と結婚して共同統治する道も選ばず、独身で跡継ぎのないまま死亡した。このため、プロテスタントの国教こそが王朝にかわるイングランドの「国体」となったといってよい。

ジェイムズ二世の父チャールズ一世が殺された理由はいくつかあるが、その根本原因として挙げられるのは、チャールズ一世自身、かつてプロテスタントのエリザベス一世と王位継承を争ったカトリックのスコットランド女王(フランス王フランソワ二世后)メアリーの孫であっただけでなく、王位継承後、よりによってフランス王女でカトリックのアンリエット・マリーと結婚し、この后が熱烈なカトリック信仰を持ち、生涯を通じて宗教対立の火に油を注ぐ言動と浪費を慎むことがなかったことである。このカトリックの后の言動のために王の宗教政策その他の政策のすべてが重大な誤解と誤解の連鎖を呼び、最後には折からのドイツ三十年戦争を背景として、チャールズ一世はピューリタン(プロテスタント純粋主義=原理主義者)の軍事クーデターを経て軍事裁判にかけられて斬首された。

王政復古によってチャールズ一世の死亡に遡って王位を嗣ぎ、いわゆる「ピューリタン革命」を全否定したチャールズ二世とその弟のジェイムズ二世は、二人とも、カトリックのアンリエット・マリーの息子であった。

兄のチャールズ一世は、后こそカトリックのポルトガルから迎えたが、父が殺された教訓に照らして、臨終の際に母の宗教であったカトリックに改宗するまで、辛抱強く己を抑え、表向きプロテスタントであり続けた。

弟のジェイムズ二世は、母アンリエッタ・マリーに似て宗教対立の火に油を注ぐ言動が多かった。己の信仰を抑圧した兄の生き様が弱々しく見えて嫌だったのかもしれない。まず太弟時代に宗門検の英国教会式の宣誓を拒否して海軍卿を辞して国民の猜疑心を煽り、最初の妻アン・ハイドが死亡すると、イタリアからカトリックの後妻マリアを招いた。実は、ジェイムズ二世の後には、アン・ハイドとの間にできた娘で、プロテスタントのオレンジ君ウィリアムの妃になっていたメアリーが王位継承し、プロテスタントの君主(女王)に戻る予定になっていたので、国民は、カトリック王は一代限りの辛抱だとじっとその時が来るのを忍耐強く待っていた。ところが、1688年6月10日、カトリックの後妻マリアが男子ジェイムズを出産したために王位継承順位が変わってしまい、プロテスタント王国にカトリック王朝が成立する現実的危険が発生してしまった。このため、イングランドの「不滅の七人」がオレンジ君ウィリアムに軍事介入を要請、これをフランス王ルイ十四世との戦争にイングランドを動員する好機と見て承諾したウィリアムの征英艦隊上陸の報を受けて、ジェイムズ二世は父チャールズ一世が殺されたことを思い出し、「殺される!」と錯乱して鼻血を出し、這う這うの体でイングランドから脱出を図り、二度目にようやく成功し、フランスに亡命、その地で客死した。世にいう「名誉革命」である。

チャールズ一世とジェイムズ二世の教訓から、1689年の権利章典(「臣民の権利を宣言し王位継承を定める法律」)と、その王位継承規定に不足が生じて新たに立法された1701年の王位継承法(Act of Settlement 1701)は、どちらもカトリック信者と結婚した者から王位または王位継承権を剥奪する規定を持っていた。この規定が廃止されたのは、実に、2013年の王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)である。この間の300年をこえる年月も宗教問題の根の深さを物語る。

日本の小泉総理や安倍総理の靖国参拝を見るにつけ、ふとイングランドのジェイムズ二世のことを思い出すのは、やはり、ジェイムズ二世の父チャールズ一世が軍事裁判で処刑されたからかもしれない。

同様に日本の総理大臣の靖国参拝の背景にはやはり極東国際軍事裁判(東京裁判)がある。

ジェイムズ二世にとって、父王の名誉回復は王政復古で果たされたかもしれないが、やはり母后のカトリック信仰の回復も図らなければ気が済まなかった。そのため、プロテスタント王国としてのイングランドの国民的自我同一性に対しては、現実的配慮が足りなかった。

キリスト教の殉教思想とならんで、靖国神社の殉国思想には、死を恐れない、理性を超えた力がある。

ともすれば、第二次世界大戦後の国際秩序、それは国連憲章に署名した1945年6月26日のサンフランシスコ会議の名をとって「サンフランシスコ体制」と称しうるが、その中で唯一の「敵国」の宗教、そういう意味で「異端」である靖国信仰に殉じることを厭わないほどの力がある。

この点で、イギリス憲政史から導き出される教訓は「宗教は理性を超える」ということで、こと宗教問題に関する限り、理性的な説得も誤解されるだけで、下手をすれば火に油を注ぐということであろう。宗教問題の賛否両論は、どちらも自分が理性的で相手方が感情的だと確信しているために、双方の間で理性的な対話や理解は難しい。ジェイムズ二世は、宗教へのこだわりから、指導者として失敗した。

アリストテレスの理性的かつ経験主義的な憲政学が教えるところは、政治指導者は、政治を宗教、思想信条に優先させなければならないということである。