同門 2013年9月号 表紙

同門 2013年9月号 表紙

永楽庵 縁側

永楽庵 縁側

永楽庵 躙口

永楽庵 躙口

永楽庵 躙口 その2

永楽庵 躙口 その2

愛知県稲沢市祖父江の表千家茶道教室の永田萬里先生のご紹介で、京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生先生に、亡父が若い頃に彦根から移した茶室「永楽庵」を、2013年5月と8月の2度にわたって見て頂ましたところ、表千家の同門会の雑誌、同門2013年9月号(第506号)8-9頁の2ページにわたり、「茶席夜話」第427話として記事を掲載して頂きました。

まことに、有難いことでございます。

日本の茶室・数寄屋研究の第一人者、中村昌生先生も彦根工業専門学校のご出身なので、彦根からの宮中献上品(正副二つ作り、副品は製作者の手元に下賜される)の茶室永楽庵の副棟と伝えられるお茶室にはとても関心を持って頂きました。

『同門』誌9月号の表紙をアップロードしますので、是非、皆様もご覧ください。ただし著作権の問題もあるかと思いますので、ここでは自分たちで撮影した「永楽庵」の写真を掲載させていただきます。

さて、中村先生は記事の中で千宗旦が八条宮(桂宮)智仁親王(1579-1629)に献上した相国寺慈照院頤神室を引き合いに出されております(9頁上段)。そこで、是非、比較の為に拝見したいと相国寺慈照院様にお願い致しましたところ、ちょうど『同門』誌の中村昌生先生の記事を読んでいらっしゃって快くご承諾頂き、2013年10月2日、拝見に伺いました。以下、慈照院様のパンフレットの写真も掲載させて頂きます。永田萬里先生と中村昌生先生と表千家編集長の大場豊彦さんと相国寺慈照院様に深く感謝申し上げます。

相国寺 慈照院 頣神室

相国寺 慈照院 頣神室

永楽庵床a

永楽庵の床の間

永楽庵襖

永楽庵の茶道口と前間の襖

確かに頤神室と比較致してみますと、頤神室も永楽庵も同じ四畳半下座床であり、床の間、茶道口、二枚引違の襖の位置関係が同じです。さらに、天井も化粧屋根裏と平天井の組み合わせになっているところも似ています。そして、頤神室には客座まわりの壁に藍の湊紙が貼ってありますが、永楽庵には腰貼はないものの、代りに襖が腰の位置まで色調のよく似た藍の和紙になっています。この襖紙は父が一度襖屋さんに修理に出そうとしたところ、この襖紙は他にないから、そのままにしておいた方がよいと諭されて今も維持されております。

大きな違いは、頤神室の二枚の腰障子の貴人口が、永楽庵では小さな躙口になっているところ、頤神室では洞庫(道幸)と呼ばれる茶道具の出し入れのできる押入(脚の不自由だった千宗旦のための仕様と思われる)の引違の襖が、永楽庵では貴人口に通じる二畳の前間に通じる引違の襖になっていて、洞庫はむしろ茶道口の奥の水屋にあるところ、そして頤神室の持仏堂(通常は布袋像が飾られ、首だけ千利休像に取り換えられる)が永楽庵にはないところでしょうか。そして頤神室には床の正面の二枚の腰障子の貴人口の他、明かりのとれる開口部は貴人口から見て左手と右手にそれぞれ一つずつの下地窓(右手の下地窓は、宗旦に化けた狐が正体を見破られて逃げて大きくしたと伝えられる)があるだけなのに対し、永楽庵では床の正面の躙口から見て、左手の壁に二枚引違の中敷居窓と下地窓、躙口の真上に二枚引違の連子窓とその右奥に下地窓(風炉先窓)があり、全体的により明るく開放的に感じられます。

材質の違いもあり、頤神室では床框は栗、床柱は赤松で、床天井も杉板が二枚なのに対し、永楽庵では床框は柿、床柱は檜、床天井は高さ六尺七寸と高い桐の一枚板となっています。天井も、頤神室では貴人口側の一畳が化粧屋根裏で、持仏堂の前の半畳と残りの三畳がそれぞれ別々の網代の平天井なのに対し、永楽庵では、床から躙口までの一畳半が竹垂木竹小舞の化粧屋根裏で、残りの三畳が杉板羽重ね張りの平天上です。ただし、頤神室の天井は、明治の廃仏毀釈による荒廃の後、戦後、昭和30年に修理されたときのもので、それ以前の姿とは違うそうです。

以上のような相違点も踏まえつつ、内部を一見したところ、永楽庵は、大正の宮中への献上品として、その先例となる桂宮智仁親王のための頤神室を参考にして作成されたものと考えてよいと思われます。

頤神室の二枚の腰障子の貴人口と比較しますと、永楽庵の貴人口は三枚の腰障子で数が一枚多いだけでなく、茶室に直通するのではなく、まず隣の二畳の前間に通じております。これらのことから、中村先生は、これは貴人口とは思えないと書いておられます。確かに現状では北向きで、方角も悪く、貸家の裏、檜の木陰で、とても貴人口とは思えない場所になっています。

ただ二畳の前間を「相判席」と見る説には疑問もあり、それは、表門を入ってすぐ正面左手にある「供待ち」竹傘亭の存在です。まさに竹傘亭こそが「供待ち」としてお相判席だからです。

二畳敷の前の間は、むしろ貴人を送り迎えする一種のレセプション・ホール兼クローク・ルームのような場所と捉えることができ、火燈口は、給仕口には違いないかも知れませんが、主人が特別の貴賓をお迎えし、お見送りするための口だったかもしれません。つまり、永楽庵の貴人口は頤神室の貴人口とは比較にならないほど手が込んでいて、中村先生を驚かせてしまったとみることもできるように思われます。

永楽庵の貴人口

永楽庵の貴人口

永楽庵貴人口と前間

永楽庵貴人口と前間

永楽庵貴人口2

永楽庵貴人口2

永楽庵の貴人口は今は北を向いていますが、この向きについても、私は以下のような仮説を立てました。永楽庵を彦根から下鴨に移築するにあたり、亡父は、東の方、大文字を眺められるように、永楽庵の向きを反時計回りに90度回転させたと。つまり、現在は、東山、大文字の方角を向いている竹の腰掛に通じる中敷居窓はもともと南を向いていて、雪隠(トイレ)は現状の南ではなく西に向き(一般にトイレを南向には設置しないでしょう)にあり、躙口も貴人口も現状の北ではなく東を向いて、二畳の前間は茶室の北側に位置して、貴人は東から前間に入り、そこから南面して襖を開いて茶室に入った。この違いは頤神室があくまで宮家(桂宮様)のための茶室であったのに対し、この永楽庵は大正の貞明皇后の発注による献上品正副二棟の副棟と伝えられていることから、現役の天皇陛下が、中国の皇帝と同様、天の中心を象徴する北天を背にして南面する形で茶室に入られることが想定されていたからだと考えます。

この仮説のもとで、『同門』の中村昌生先生の永楽庵についての記事の3図の屋根の「重ね妻」、そして2図の外観を見ておりますと、この茶室の屋根は、大正の天皇皇后両陛下を象徴する「比翼の鳥」が二羽の番いで南面して翼を広げて天空を舞う姿をあらわし、それゆえに鳥の「頭」にあたる「妻」が二重になり、「翼」にあたる「庇」が前例のないほど大きく広がって軒桁も高くなっているのではないかと思われます。そして4図の平面図は正方形を二つななめに重ねた形になっており、つまり炉の間四畳半の正方形が、水屋、勝手(土間あり)、二畳間と炉の間の一部から成るもう一つの八畳分の大きな正方形の上に重なっている形です。二つの正方形は、まさに二羽の比翼の鳥の胴体をあらわしているように見えます。また、この設計上の必要性から、貴人口に面する独特の二畳間が生まれたのかも知れません。

永楽庵の重ね妻

永楽庵の重ね妻2000年4月30日

永楽庵の重ね妻2

永楽庵の重ね妻2

永楽庵の重ね妻3

永楽庵の重ね妻3

永楽庵の重ね妻4

永楽庵の重ね妻4

大正天皇は現在の一夫一妻制を採用された最初の近代的な天皇であらせられたことに鑑みますと、比翼の鳳凰に見立てた永楽庵はそんな大正の天皇皇后両陛下のお姿を象徴するお茶席なのだと思います。

中村昌生先生は、これを「幡新家の永楽」としてご紹介くださいましたが、そう考えますと、やはり到底当家の私物に収まるようなお茶席ではなく、「大正の宝」でございます。残念ながら、昭和の大戦で宮中の正品は焼失し、占領軍の民主化政策に従い、たまたま当家がその副品をその材木の供給地と思われる彦根からお預かりするに至ったに過ぎません。西田庄助氏は、おそらく、三年かけて材木を探し正副二室のお茶室を実際に建てた大工さんのお知り合いだったのだろうと思われます。そして副品がその彦根の地から千年の王城の地、京都に移築されるに至ったのは、東京の正品が焼失している以上、天皇制の里帰りを象徴するような巡りあわせであったと捉えられるでしょう。明治維新において専らイギリスの意向で東京に移された天皇家が国際・国内の政治の荒波から隔離されて日本の伝統を守るためには、そろそろ東京から京都にお戻りになった方がよいということを、この「大正の宝」永楽庵のたどった運命は暗示しているように思います。

ところで彦根から京都への移築に携わった大工さんは、叔母は、東山に住んでおられた松田さんだったと思うと言っておりますが、母は、それは同時期に大原から南方庵という密庵を模したお茶室を下鴨に移築した大工さんで、永楽庵は別の大工さんで、亡父がふとしたことで解雇してしまってから、その人以上の大工さんには生涯二度と出会うことがなかったと後悔した、そういう大工さんだったと記憶しております。その亡父が、永楽庵で最も感心していたところは「一寸五分の面皮の柱」でした。どういうことかと申しますと、壁と柱を同じ平面に並べるのではなく、幾分、柱を壁よりも突出させて、その厚みを見せるのが趣のあるところで、その壁の面から出た柱の厚みが一寸五分(45.45mm)ということ、その心は、茶室の柱はあまり太くないので、壁の方を薄くして、それだけ柱の厚みを外に見えるようにするために、土壁の下地の竹の節を削って、その薄さを実現したところにあるということです。つまり、現代では耐震構造ということで壁をできるだけ厚みをもたせようとするところ、日本の伝統的な茶室は、構造計算上、これ以上削れないという限界まで「薄さ」、繊細さを追及していたということです。まさに、現代日本建築とは真逆の、異質な、伝統的な日本の「美」と「技」のありかたであったように思われます。

これも、『逝きし世の面影』(渡辺京二)の一例なのでしょうか?

日本にかつて存在した文化(文明=世)について、そう思うのも、思わないのも、個人の自由かも知れませんが、できれば、逝って欲しくない気が致します。

できれば、永楽庵=比翼の鳳凰は、もとどおり南向きに戻すことができれば、その真価がもっともよく発揮されるでしょう。それは日本の皇室にとって、そして大正の両陛下が示された近代日本の夫婦のあり方にとって、とても大切なことだと思います。

最後になりましたが、永楽庵(副)が下賜されていた彦根市(現)西沼波町の西田庄助邸に今も残る大正時代の数寄屋・書院造建築群の保存について、滋賀彦根新聞の記事がありますので、興味のおありの方はご高覧ください。滋賀彦根新聞2011年1月7日正月特集号「日本の原風景を後世に残そう」

学徒動員から奇跡的に生還した父は、よく「大きな戦争に負けた国は必ず滅ぶというのが歴史の法則である。しかるにドイツは二度も大きな戦争に負けてもビールのジョッキを片手に『わが国にはカントあり、ゲーテあり、ベートーベンあり』と誇りを失うことはなかった。日本には何があるだろうか?」と自問自答していました。父は、西田邸で永楽庵と竹傘亭をはじめとする大正の数寄屋書院建築群を見て、ドイツのカント、ゲーテ、ベートーベンに匹敵するような、国が破れても変わらない日本の価値を見つけたのだと思います。そして、そういうものが戦後の日本人の価値観の変化とともに次々に壊されていく中で、自分の力の及ぶ限り守っていくことこそ、特攻隊で死んでいった学友たちに対する、生き残った者の責任だと思っていたのではないかと思います。

P.S. なお、中村先生の記事の中に、父について「高名な哲学者」で「博士」との記載がありますが、正確には、京都大学文学部哲学科博士課程単位取得満期修了です。私が、先生に父のことをご説明する中で、父の「博士論文」は、ドイツの「シェリングの啓示哲学について」でしたと申し上げましたので「博士」という記載になったのだと思いますが、父の当時の京都大学は、そう滅多に博士号を授与する大学ではございませんでした。